ててて

 

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この前、世界アニソンランキングみたいなのやってたね。1番とか2番とかつけるの無粋だなと思うけど、それだけ多くの人に愛されてるって知れる機会も貴重ではある。

NARUTOSignとか銀魂サクラミツツキとか、かっこよくてエモーショナルな曲が好き。でも一番好きなところはアニメの世界観に浸からせてくれるところ。間奏で更に感情的にならせてくれるところ。

声に出したすぎるな…カラオケいきたいなぁ

 

友達の結婚式に行った。人生初。

これもすごかった。普段日常では体験することのない世界に踏み入れることはまるで初めてディズニーに行った時みたいな衝撃があり、感動があり、幸せが空気に溶けたような空間が広がっていて…。こんなhappyに溢れた時間もあるもんだなと。2日後には早速仕事のストレスを感じたりもしてるけど、何があろうと無かろうと、結婚式の幸せだった時間と空間がなくなることはない。想像以上に素晴らしいものなんだなーって感じましたね。

あと個人的にいいなーって思ったのは、仲の良い友人を自分のために集められるってところ(言い方)。高校の同窓会に恐らく一生呼ばれないような生き方をしてきたけど、結婚式をやるってなったら呼びたい人は結構いる。多分10人以上いる。その時点で既にhappyですね。皆様これからもよろしくお願いします。結婚式やるなら絶対何がなんでも呼んでください。

 

 

 

金銭的価値観

5,000円のよく分からん焼肉居酒屋の食べ放題

5,000円のめっちゃ良い焼肉屋の単品注文

であれば後者の方が幸せだなぁと思う

10,000円のイヤホン(毎日それなりの音質・1年弱で壊れる)

25,000円のイヤホン(毎日かなり良い音質・3年以上使える)

これも後者の方が幸せだなぁと思う

退勤後、3時間飲みに行く(1万円前後)

退勤後、2時間サウナ行って1時間ラーメン食べる(5千円前後)

退勤後、マッサージに行く(1万円前後)

これも後者2つかなぁ

何かを否定したい訳ではないが、自分が本当に求めているものを考えると選択に正解不正解があるような気もする。ただ一見コスパが悪そうな選択をしていても、そこで何か良い刺激や経験を得られたら、後者でよかったというパターンだってある。

なんというか、面白いなぁと思う。

 

その神様って人は、そこに“いいこと”と“悪いこと”の区別はない

“出来事”を配置してるだけなんだ

「出来事」なら、捉え方をその後の自分の行動次第でいいことにも悪いことにも変えられる

大好きな弱ペダの真波くんのセリフ

何を選んでも、そこで何を求めて、そこから何に手を伸ばすのか…

 

あ、時間だ

また

 

財布

新しい財布を買うことについて

・無理に買い換える必要性を感じない

・キャッシュレスで使う機会が減った

・今以上にデザインが好きな財布が見つからない

などと、あれこれと出てくる言い訳を免罪符に、何だかんだ10年ちょっと同じ長財布を使っていた。しかし今日、気がついたら新たな財布を買っていた。運命的な出会いをしたと言いたいところだけど、あくまで気になった、気に入った財布があったからというだけに過ぎない。それを運命っていう人もいそうだな。どっちでもいいね。

 

強いて言えば、今使っている長財布に対して、小さいバッグに入れるにはでかすぎるという不満を感じていた。本来、持ち歩きたいアイテムがあって、そのアイテムを包むために必要な大きさのバッグを選ぶべきなのかもしれない。何だかおかしな事態になっているのかもと感じつつ、一方で、荷物を減らすことでスマートさを得たいという気持ちも芽生えつつあったのだ。

そしてセカンド財布という考え方があるのを初めて知り

・小さな財布であれば小さいバッグを普段使いしやすくなる

・セカンド財布であれば今の財布を無理に捨てる必要もない

という意見が脳内会議で挙げられ、そのまま有効なアイデアとして承認された。

元々、折りたたみ財布は好みではなかった。長財布を使っている大人がやけにかっこよく見えた小学生の頃の感覚そのままに、頑なに長財布がいいと思っていた。気になって買ったボディバッグに財布がギリギリ入らなかった時も、財布ではなくバッグを諦めたこともある。

けれど、あくまで今回買ったのは持ち運びしやすさ重視のセカンド財布。病院の診察券とか色んな会員証とか、普段あまり使わないものはメインの長財布に。現金とクレカと身分証だけをセカンド財布に入れる。財布が二つになるのはぶっちゃけ不便になる可能性も否めないものの、少なくとも普段生活する分には問題ないと思っている。

色々書いたけど、結局は欲しいものがあったから買ってみたってだけのお話。

 

距離感というやつ

近くに住んでるけど全然会わない人

遠くに住んでるけど年一位は会う人

物理的な距離と心の距離は全く合致しないことがほとんど

何が言いたいかというと、特に言いたいことはない。

強いて言えば、何もないということが言いたいのかもしれない。

意味の分からない前置きはさておき、近くにいる人(客観的に見れば)が遠くに行くという話を耳にすることが増えた。

その度に「だから何だろう」と思う。頻繁に会う人が遠くに引っ越すとかだったら寂しいとかも感じるかもしれないけど、そうでない人がどこで暮らしていようがお互いに何も支障はないというか。もし必要ならLINEで連絡取れるし(知らなかったりもするが)。例えどんなに離れたところで生きていても、例え生きていなかったとしても、そこに暖かい気持ちが宿っているかどうか、みたいな…。そんなポエミーなことが言いたかった訳ではないけれど、古い友達に限って何年振りかに会っても久々感がないのは、亡くなってしまった人を思い出して時に寂しくなるのは、心の距離が近いからと言う他ないような気もする。

古い友達がやたら神格化されるみたいな風潮もあんまり好きじゃない。古きを上げることで今を下げるみたいなニュアンスを感じ取ってしまう。人間は生きていくとどんどん色んなフィルターが掛かっていく中で、それが薄い時代を共に生きてきたから…みたいな感じなのだろうか。

とまあ色々考えたところでやがて面倒臭くなる。考えを文章にすると水漏れが多発してる家屋を相手にしてるみたいな感情になる。前提はこうだけど、今回で言えばこうだし、それにはこんな理由があって…みたいな作業が途方も無い。

とりあえず、目の前にあることが一旦全てだなと思う。連絡が返ってこない、ドタキャンする、遅刻する、会わなくなる、遊ぶ、次の予定を立てる、

みたいな現実の繰り返し

元気の出し方

・元気がない時は 何もできない でいい

・自分も他人も信じない 

・時間経過により少しマシになったら初めて好きなものを食べたり芸術に触れたりする

・元気の反対は 元気がある ではなく いつも通り 

(憂いも孤独も悲しみも全て共存している)

・上の項目すら正解と思い込む必要はない

 

最後が結構ポイントだなと思っていて、“ こうすれば大丈夫 ”が“ これで元気にならないと良くない ”みたいなプレッシャーを自分にかけてしまっていたことに気がついた。気づいてから肩の力が抜けた気がする。

人のラジオで教えてもらったことだ。SNSからは嫌なニュースや考えばかりが流れてくるので閉ざしがちだが、自分の糧となる情報が流れてくることだってある。というか自分にとって有益な変化をもたらしてくれるのはいつだって他人で外の世界からだ。何かが怖くて閉じこもる結果、変化や向上も遠ざけてしまうのは当たり前のことだろうか。

 

今年ももう終わりだね

 

アポトゥーザ・イェイン

せっかくの連休だというのに体調を崩している。

いくら何でもいきなり寒くなりすぎじゃないだろうか。

確かに涼しくなって欲しいとは願った。けれど程度というマナーを彼らはいつも平気で破ってくる。

思えば顔面パイだって黙って差し出せば普通に嬉しいプレゼントなのに、どうしてそんな乱暴なことをするんだろう。

「あげますよ」「あげますからね」「はいどうぞ」←分かる

「(ベチャア)」←ひどい

良かれと思って、喜んでもらうために。

優しさというエゴを免罪符にしてパイを顔面に擦りつける。

よくわからない。パイも気温も、もっと優しく上げたり下げたりすれば良いのに。

 

体調を崩した話で言うと、薬を飲むために食事の回数を増やしている(3回)。

常にお腹の中に何か入っている感覚がやや不快で、運動もせず1日3食も食べたら絶対太ると確信せざるを得ない。何もせずともそれなりに良いスタイルを保てることはないし、年齢を重ねてきていることもあり、食事習慣と運動習慣は本当それなりで良いから気を遣わなきゃいけないなと思う。

一方で、手っ取り早く幸せを感じやすいのが食べることだから、ここを無理に抑制するのも自分には無理だなとわかってもいる。回数は減らす、そこそこ食べる、そこそこ動く、みたいな感じでバランスを取れませんかね。我慢することが結局ストレスになるのなら食べた方が良いですしおすし。な

 

早く歌ったり買い物したりしに行きたいなー

 

 

また来年

暑さを感じるたび、今年はもういいよ……来年また味わってやるから……という気分になる。

毎日暑さを呪っていた甲斐もあり(嘘)今夜はかなり涼しい。一年で最も好きな温度感。

 

土手沿いを散歩していると、若い子たちが寄り添うように座り込んでいた。その隙間から覗く光や火薬独特の匂いがなんとも懐かしく、今年も結局、いやもう何年もやってないなあ…と思う。夏らしいことをしなくとも夏は終わってしまうのだ。

じゃあその後悔を生かして秋っぽいことや冬っぽいことをするのか?

まあ、しないんだろうな。

 

とはいえ来月は楽しみなことや、いよいよか…と思う予定などを組めつつある。

ずっと生の歌声を聴いてみたかったSennaRinさんのLIVE、親知らずの抜歯、1泊(予定)大阪旅行など…。

親知らずは20歳の頃に2本抜いた。残りの2本は横に埋まっているので切らないと抜けないねと言われ敬遠していたものの、最近、どの道5年後くらいには抜くことになると思うと言われたので(もっと早く言ってくれ)ついに決心した。それが終わったらローンを組んで歯の矯正をしようかなと思っている。

 

月並みなことだけど、楽しみがあれば少しは前向きに生きられるかなと思っている。

どうしても目の前のことに必死になったり、反対に脳死で過ごしてしまったり、予想できる日常と予想できない未来に退屈さや不安を感じながら過ごしてしまいがちだ。

「こう過ごしている自分は大丈夫」なんて思えることはないだろう。

ただまあ、好奇心が芽生える限りは、それに従うのが生きるってことじゃないかとも感じている。

 

アリスとテレスのまぼろし工場という映画を見た。

端的に言って少し理解するのが難しい内容だなと思った。けれどテーマの一つに挙げられる「どこにも行けない閉塞感」はコロナ禍ならではの発想なのかなと思ったし、見通しできない世界(未来)にどう勇気を持って踏み込もうか…というのは多くの人が悩みとして持つものだから、人を選ぶようで実は多くの人に刺さるのではと感じた。

 

最近、歌が全然うまくならないなと悩んでいる。

音域がだいぶ広がってきて、キー選びに苦労する機会が減ったのはとても嬉しい。ただ、求めるうまさ(=表現力)は全くと言っていいほど変化を感じないし(主観的に判断できないものなのか?)、何なら下手になっていないかと感じる。アウトプットというよりはインプットの話で、喜怒哀楽や感情の起伏、人生経験そのものが希薄になっているからではないかと予想する。豊かにするためには色々な方法があるだろうが、前提として「自分に嘘をつかない」ことが鍵になっている気がする。演技もそう。無意識に色々とブレーキをかけてしまうのは本当にもったいないね。