感覚と理論

字の練習を少しずつ始めている。

まずはひらがな、まずはア行。

カタカナも漢字もある程度は進めたいので、かなり途方も無い作業のようにも思える。実際、途方もない。

最初はなんというか「どう成長していくのが良いか分からず手探りな状態」だ。どのくらいの大きさで書いてどのくらいの量をどうブラッシュアップしながら書いていくのか。その迷いみたいなものが既に過去の紙に表れている。

でもその迷いがあるから「無理にマスをいっぱいに使って大きく書く必要はないな」とか「お手本も探せばいろんな特徴があるから1つに捉われなくてもいいんだな」みたいな発見がある。人から言われるのと自分で気づくのとではまるで意味が違う。効率よくと無駄を省くは必ずしもイコールにならないと思った。

感覚派か理論派か、みたいな話がたまにある。

その話が既に理論的なんだよなぁ…という個人的見解は置いておいて、片方の足だけでは歩くことができないのと同じかもと思った。感覚で進んでみて、限界が来たら今度は理論で進む。頭でっかちになる前に再び感覚でなんとなくやってみる。

右足を前に、次は左足を前に。そうやって進むのが自分的にはしっくりくる気がした(何となく閃いてそのまま勢いで語ってしまっているが)。

別に右足を先に出そうが左足を先に出そうが大した問題ではないので、今までこの話にいまいち乗り切れなかった理由はこれかと少しすっきりした。

 

ある程度データを頭に叩き込んだら、あとは本能に任せる。(データにないものは本能に任せても対応が難しい)

↑これ系の話はベイビーステップでたくさんしてて納得してるつもりだったけど、それも自分なりに体験してみることで初めて身になるんだなーと思った。

 

肝試し/LINEのグループが嫌い/遺伝子

肝試しというコンテンツがある。

肝試しとは、怖い場所へ行かせて、その人の恐怖に耐える力を試すことである。もっぱら夏の夜に行なわれ霊的な恐怖に耐える、日本の伝統的なゲームの一種。試胆会ともいう。

肝試しが得意という人もいれば不得意な人もいる。今日は「得意とか不得意という話ではなくね?」と思ったことを書く。

結論から言うと、恐怖からは一刻も早く逃れるべきなので、むしろ不得意であるべきではないかと思っている。

先ほどまで夜風に当たりたくて散歩をしていた。街灯や人通りが少ない住宅街を通りかかったところ、静寂の中に鳴り響く風鈴の音に不気味さを感じた。これがホラーゲームなら、後ろを振り向けば“何か”が現れるところに違いない。一度そう考えた途端、心霊体験をした友達の話を思い出したり、「実は自分は死んでいて、今潜在意識だけが街中に降りているんじゃないか」みたいな空想妄想が始まったりした。散歩といいながらもいつも歩いたことのない道を攻めがちで、全く知らない場所に居続けたのも良くなかった。

嫌な想像ばかりが先走ったものの、特に何があるわけでもなく、いつの間にか見知った道へと戻ってきていた。そして冒頭の話へと至った次第だ。

そもそも、肝試しの得意不得意とは何をもってして定義されるのだろう?

・予想外のことがあっても驚かない(⇔驚く)

・緊急時でも焦らずに行動できる(⇔パニックになる)

・危険を危険と感じない(⇔危険からはすぐに逃げる)

大体はこんな感じだろうか。

2つ目は得意であるべきだと思うが最後の1つはどうだろう。護身術を紹介するYouTubeをいくつか見たときは、「対人トラブルなら己の力を過信せず、できれば暴力ではなく話し合いで解決するべき。いきなり襲われた時にその場を凌ぐ能力にすぎない」と結論付けられることが多かった。勝てる勝てないというよりは処世術。話し合いができないような凶暴な相手となると、流石に多少の力があっても無傷でことを収めるのは難しそうだ。すると少しでも危険を感じたら何もせずに物理的に逃げることを優先するべきだし、その時はもう逃げることがかっこいいとかかっこ悪いという話からはとっくに遠ざかっている。対峙するのはあくまで仕方なくで、少しでも早く逃げれる方が良いに決まっている。

肝試しとは、怖い場所へ行かせて、その人の恐怖に耐える力を試すことである。

 

は?

 

恐怖に耐えられるというのは、言い換えれば、逃げるという選択肢から遠ざかっているのではないだろうか。予想外の危険を察知した瞬間に必要なのはまず「状況把握」そして「状況判断」だ。これが遅ければ遅いほど生存のリスクは下がるに違いない。しかし肝試しは暗いところでやると決まっているので、状況把握は非常にしづらい。物音がしたと思ったら、死角から襲われるということもあるだろう。つまり、肝試しや夜道においては常に「すぐ逃げる、あるいは逃げられる道を選ぶ」ことが生き残る上で重要だと考える。女性が夜道を歩くことを考えればもっと納得しやすいかと思う。

そもそも危険な場所には近づくべきではない。恐怖に耐えることよりも、恐怖に繋がるような選択肢を取らない判断力や想像力を試すべきではないだろうか?車の教習所でやった交通シミュレーターのゲームを思い出した。

肝試しでかかる恐怖は基本的に(よほど霊感のある人はわからないが)「何が起こるかわからないこと」だ。正体不明のものと対峙する時に、笑ったり動じなかったりすることは、娯楽として考えれば得意といっていいのかもしれない。けれど一方で「反応鈍くないすか?本当に何かあったら真っ先に逃げるべきなんじゃないですか?」といいたくなってしまう気持ちもわかって欲しい。勇気と慎重、無謀と臆病。どっちも長所であり短所となるし、それをわざわざ肝試しを通して得意と不得意の話にすり替える必要もないと思う。怖いものは怖いやん。

 

グループLINEが昔から嫌いだ。仲の良い人が集まって雑談などの為に作られるのは嬉しいが、一度きりの集まりの為にグループが作られるとめちゃくちゃ萎える。

使わないグループに対しては「使わないんだよな…話す用事もないし…寂しい…こんな思いするくらいなら別になくて良くね…?」と思ってしまう。かといってグループを抜ける度胸もなく、いつももやもやだけが残る。

多分、昔から人に何かを求めてしまいがちなのだろうなと思っている。

明らかに用事があって話をしているのに反応しない人もいるし(遊びだけでなく仕事関係でも)、そういう人にめちゃくちゃイライラする。何かしら同じ目的を共有してグループを作る以上、既読をつけたなら何かしら反応するべきだと思ってしまう(忙しくて返せないのはしょうがないけど、だったら返せる時につけてくれやと思う)。反応がないなら「ああ、この人にとってはその程度のことなんだな」と感じるし、仕事なら個人で詰めるし、プライベートなら普通に距離を取るようになる。そういう対応をすると自分の心の狭さを感じてストレスになる。だったら最初からグループなんかなくていい。

もし自分が何かしらのチームリーダーになったとしたら、手が回らなくなるまでは個人チャットで用事を済ませるだろうな思う。諸々の意思疎通ができて初めてグループにする選択肢が生まれる。グループだから話し合えるんじゃなくて、話し合えるからグループになろう的な。結婚とかもそんな感じだろうか。とにかく、適当に対応される人とはそれが気にならないくらいまで距離を取りたくなってしまうので、とりあえずグループ作っとくかという風潮はぜひ廃れて欲しい。

 

Pay money To my Painというバンドの映画「SUNRISE TO SUNSET」のティーザー予告編動画が公開された。今の自分に遺伝子レベルで刻みついている音楽と魂、それが映画館で感じられるのは本当に嬉しい。自分はバンドマンではないので周りにも音楽好きな人も少なく、生涯でPTPが刺さった人とは殆ど会ったことがない。何なら一番PTPの話をしているのは神サイのVo.柳田さんのツイキャスでコメントを拾ってくれた時かもしれない。(めちゃくちゃ研究されてるんだなというのがフェイクとギターコードから強く感じる)

天元突破グレンラガンというアニメの映画も4DX/MX4Dで上映されるらしい。こちらも自分にとっては起源にして頂点といっていいほどの作品で、再び良い環境で観られるのは嬉しいし、これをきっかけに新しいファンが増えることにも期待したい。

遺伝子ってどういうことかというと、これもまた長い話になりそうだ。自信のない時、失敗した時、不安な時、独りの時。そんな時に寄り添ってくれたり、背中を押してくれたり、共感してくれたり、光を見せてくれたり、ああなりたいと思ったり、それが原動力になったり、ずっと忘れたくないと思ったり、そういうものだ。

生きる上で「たくさんの好き」を用意するべきだなと感じる。少ないと、そこに何らかのしがらみがあった時に辛くなってしまうから。けれど好きになる努力はできても夢中になれるかは別の話だ。だから何かにハマっている人を見ると羨ましく感じることがある。これからも色んな出会いがあるといいなと願うばかりだ。

 

LINEギフトの欲しいものリスト、全人類に送信されて欲しい

自分には何もないと時々思う。失ってしかいないとも。

能力やキャリアを積み重ねていく人、同棲や結婚、はたまた出産の件を嬉しそうに話す人、帰り道に通りかかる居酒屋で楽しそうにしている人たちを見かけたりなんかするとそんな発想をしがちである。

けれど最近、失ったものの方が多いなんてことはないとも思うようになった。

単純に考えて、手に入れたり出会ったりしたものしか失いようがない。どんなに強く長く孤独や喪失感を感じ続けるとしても、客観的に見れば持っているものの方が絶対に数は多いはずだ。五体満足であること、親、友人がいること、磨いてきた技術など。失う可能性はあれど、全て以上を失うということは絶対にない。生きている以上は誰しもが何かを持っている。当たり前の幸せというのは悲しいことに感覚が麻痺してしまう。本当は幸せなはずなのに当たり前=0と認識されてしまう。それは紛れもなく寂しいことだ。

人は幸せな体験より悲しい体験の方が頭に残りやすいらしい。それは飲食店で働いていた時に体感していた。100人の優しいお客さんよりも1人の悪質クレーマーの方が頭に強烈に残ってしまう。想像だけど、生存本能からくる危機回避の一種だと思っている。生き延びる上では成功より失敗から学ぶ方が先決。きっと人間の多くはそういう風にできている。幸福や長所よりも、失敗や短所に目がいくようにできている気がする。

ただこれは今まで散々(自分の中で)口にしてきたことだけど、俺は失敗や短所は完全なネガティブとは思っていない。短所が存在すること自体は誰にでも言えるし、長所もいきすぎれば短所になり得る(反対もそう)。大切なのは見方だ。複雑な気持ちだけど、1人のクレーマーの存在によって同じ目に遭わないように工夫ができる。これは成長のきっかけと言える。弱さを知ってどう行動するか、何の為の強さなのか…自分の行動原理についてはよく考える。不要なものは気にしなくていいし、必要なものはマイペースで向き合えばいい。それは絶対に他人に押し付けられるものではない。

本当に大切なことだったり本音っていうのはポツリポツリ出てくるものかもしれない。だとすると、ブログに考えの全てを網羅して精査して残すという作業は実は途方も無くて、更新が大変というのはまさにその通りとも言える。言葉にできるかはともかくとして、自分の本心は気がつけばすぐ心の奥底に消えてしまうのでできれば毎日向き合いたいし、向き合うべきだとも思う。座禅でもするか。

 

最近めっちゃ聴いてる↓

melt / SennaRin

サイレンと東京 / Hakubi

ドキメキダイアリー(feat.Chinozo) / asmi

君と夜明け / FOMARE

Shuffle / 奥井雅美

↑懐かしすぎかっこよすぎ

 

ざざざ

時間があるから幸せかといえばそうではない。

時間があれば◯◯するのに、という文言には何の説得力もない。

やるかやらないか、それ以上でも以下でもないのだと思う。

 

ゴールデンウィークだからといって特に何をするでもなく終わった。それ自体は別に悪くは無いと思う。数少ない大型連休、思う存分だらだらするのも贅沢だと言える。大切なのは何気ない毎日の連続なのだ。反対にいえば、ありきたりな日々にメリハリをつける目標や彩りがないのなら…。それを心のどこかで分かっているので、本当の意味での安寧は訪れようがないのかもしれない。

頑張ってなければ休まりようがないよなという話。

自分に小さな嘘、見えないくらいの嘘をつき続けてきた実感がある。だから自分に起こる変化にも気づきにくくなる。喜怒哀楽だとか愛だとか、フィクションの中にしか存在しないのではないかとすら思う。

自分語りをするのは恥ずかしいというのと、自分のことから目を離してしまうというのはごっちゃになりやすいのだろうか。本当に昔のブログを思い返すとめちゃくちゃ自分のことを書いていそうだけど、それがある種、自分との対話ってやつに繋がっていたのだろうか。1人で長いブログを書きながら自問自答を重ねるような10代を送っていたことすら忘れていた。

人に見せる為のコンテンツと思うとそれは更新頻度が落ちてもしょうがない。面白かったりタメになるようなブログなんて一度も書いたことがないのに。

 

環境は人を変える。

小洒落たオフィスでそこそこ若い人もいる職場にいるせいで、2weekコンタクト、香水、平日用の整髪剤、皮のトートバッグを買ったりした。あまり着ていない私服たちもフル稼働するようになった。

毎週デートの約束があれば絶対にいい男になれる、と友人にふざけて言ったこともあるけどあれは本当にその通りだなと思っている。結局、普段どんな場所で誰とどのように関わりたいのかで人は簡単に染まってしまう。

今後恋愛をすることはなさそうと頭では思ってるので助かる。なんだかんだでお洒落を楽しみたい気持ちはある。今が一番若いのだから。

 

なにをというはなし

結局なにを言いたいんだろう、と考えると更新が止まってしまう。

自分はこう考える、だから大丈夫

(何かに否定をされない)

自分はこうしてる、だからすごい

(何かよりも優れている)

吐き出すことで楽になるのなら愚痴を言ってもいいと思うし、自己顕示欲を満たすことで前向きでいられるならきっと悪いことではないと思う。ただ、そうしている自分への嫌悪感が湧いてきてしまうなら口をつぐむのが吉と今は思う。

不安とか自信のなさを解消する為に根拠が欲しい…そこまではきっと多くの人が同じ。

その根拠を他人に求めるのか(他人に認めてもらう)、

その根拠を自分に求めるのか(自分に認めてもらう)、

どちらが正しいというより、どっちが先かという話かもしれない。

 

ブログやSNSは他人に認めてもらいたい側面が強いと感じる。その上で更新が止まってしまうので、自分は基本的に後者で、今は自分で認められる部分が少ないと感じているのだと思う。

 

大丈夫だよ、自信持って!という言葉で自信を得たことがない。

テストや試合前、人間関係の悩みなど、自分の中で納得がいっていればその言葉に嬉しさを感じることはある。応援したいという気持ちは受け取れるから。でも結局自分が納得できていないところを自信持って!と言われても自分の意見が変わることはない。

自分のことを一番わかっているのは自分しかいない。

すると何となく脳裏で「自信なさそうだから良かれと思って…」と反論する人物像が浮かんだ。書いた通り、応援したいという気持ちはありがたい。でも本当に求めているのは自分を納得させるだけの事実で、それは結果を出せるだけの努力や過程からしか生まれない。

自分が分かってればいいので、不安も見栄もわざわざ口にする必要性を感じない。

っていうのが頭の中の意見。

それでも喜怒哀楽が自分のキャパを越えてくるのが人間なので、溢れてしまったらしょうがないよなとは思う。

 

つまり、結果、何をいいたいんだっていう話。

 

追記

ボイトレのインストラクターに初めて会った時、

「理想の先生はどんな先生?」

と聞かれたのを覚えている。

当時の自分はうまく答えられなかった。

「精神論じゃなくて自分の事実を教えてくれる人」

とその人は答えた。

本当に成長したいことであれば、空気を読まずにストレートに言ってくれるのが助かる。出会えてなかったらと思うとゾッとする。

うなうな

過去の投稿を何となく見返してみると、写真があると直感的に色々なことを思い出せるなと思ったので画像フォルダを開いた。食べ物の写真ばっかりだった。

木。

 

終演後。

 

画像を貼っただけなのに結構満足してしまった。

 

通っているボイトレでまたスタジオをレンタルできるようになったので、今日も2時間半ほど歌い込んできた(結束バンド、&TEAM、宮野真守さん、れんさん、めいちゃんなど)。カラオケで歌うとベストな力感を保ちづらくなるのに比べて喉の疲弊感が出にくいし、同じ曲やフレーズを繰り返しやすいのも良い。もう本当に曲を覚えるのが遅いので可能なら歌いながら覚えたいと思う。

音楽の話で言うと、家にいる時にやたらと劇場アニメBlue giantサウンドトラックを流している。美容院で流れていて(店長が原作からのファンらしい)アニメのサントラっぽいなと感じ確認したら教えてくれた。ジャズは全く通って来なかったけれどめちゃくちゃ良い。映画も早く観に行きたい。

23時を過ぎていたのでここまで。写真を貼ったところまでが本日のピークでした。

あとサウナ行った。サウナは気持ちいいし家にはない体重計にも乗れるので好き。(買えという話)

 

 

だだだ2

「23時を過ぎたらデスクチェアから立ち、洗顔と歯磨きをする」という自分ルール。当初は23時を過ぎたら全ての作業を中断するというものだった。

ルールを決める為のルールも話させて欲しい。まず前回も書いた通り、自分の弱い意思によって簡単に破られるものではあってはいけない。筋トレや勉強はたまにやりたくなっても、それを自分の意思だけでは継続できないのは分かっている。ではルールを立てることに何の意味があるのか。自分はこれだけ頑張っているぞという自己顕示欲を満たす為の虚勢でしかないのではないのか。答えとして、生活習慣の乱れを防ぐ為(=自分を守る為)というのがルール作りの根幹になる。

「23時〜」のルールはまず夜更かしを防ごうというものだ。自分の場合は悪夢を見ることがそこそこ大きい悩みの一つなので、外出などの用事を除けば、夜更かしをするメリットよりも遥かにデメリットやリスクの方が大きい(早寝しても見る時は見るけど可能性は下がる)。翌日の体調や気分にも直結するのでこれをやらない理由はない。やらない理由がないというのはルール作りの重要なポイントでもある。デスクチェアに座っていてはパソコンをいじってしまうし、ただ作業を辞めるだけでは寝る準備をする前にベッドの上で携帯やiPadをいじってしまう。なので作業を中断した上で、後はもういつでも寝れるという状況を作るために今のルールになった。言い方は少しずつ変わってくるかもしれないが、おおよそは変わらない。

睡眠の質で言うと、寝る前の1時間〜2時間はデジタルデトックスをするのが理想的らしい。なので電子書籍ではなく紙の本で読書をするなどが理想的だろうけども、今は紙の本は殆ど持っていないし嵩張るのでこれからもあまり持ちたくない。ただ結局YouTubeなどを見てしまってはブルーライトが目に良くない…そういった、分かっているけどやってしまう悪しき習慣を打ち消すことが当面の目標や改善の余地になる。

二つ目のルールも少しだけ触れたい。「特定のSNSアカウントを見ないようにする」だ。少し抽象的な言い方になっているが(自分の中では具体的に決まっている)、これも自分に明らかな悪影響を齎していると判断した上で決めたことだ。必要・有益な情報をネットから得るのは決して悪いことだけではない。SNSの楽しい側面だってある。ただ今の自分からは切り離した方がいいなと思う瞬間が少なくなかったので、こうして自分ルールその2に追加した。

一つ目、二つ目も少しずつ改良しつつ、三つ目以降はいよいよ自分磨きに関する内容を決めていきたい。方向性は何となく決まっているけど、これは他人の例を鵜呑みにするだけではなく自分との対話によって決めたいのでもう少し時間がかかりそうだ。何も為していない人間が偉そうに自分の考えを語るのはどうかと思う一方で、思考をとにかく言葉にするというのは思考の整理に伴い睡眠の質を向上させる効果があるらしい。だからという訳ではないけれど、自分との対話で生まれた何かは積極的に言葉にできたらいいかもしれないと思っている。ちなみにルールは取り敢えず五つの予定。時間なのでさよなら。