パージ

人の体内時計は1日25時間らしい。

朝日を浴びることで体内時計はリセットされ、地球時間(24時間)に合うのだということを最近知った。つまり朝日を浴びず好きな時に起きて寝てを繰り返していると体内時計は地球時間からは離れていってしまう。離れることで当然昼夜は逆転していくし、自律神経がああだこうだして体調も悪くなっていってしまう。好きな時に寝て起きるだけで体調が悪くなるなんてどうなっているんだろう。設計ミスと思わざるを得ない一方で、久々に少し早起きをしたのだがものすごく気持ちがいい。多少の眠気はあろうとも結局人間は朝日を浴びて生きていくべきなんだなと改めて実感した。

早起きできた自分に二郎系ラーメンをご馳走しちゃうかも!

 

 

 

9月の終わりを目前に東京の天気は秋を物語り始めた。特に朝の空気といったら夏の蒸し暑さを振り払うかの如く、どこか見晴らしのいい公園にでも出かけたくなる気分だ。去年の秋も同じようなことを考えていたのだろうかとぼんやり思う。すると季節の移り変わりとは裏腹に、自分の成長や進展具合に思考は徐々に曇天模様へと向かっていく気もする。このまま冬を迎え、年越しを迎え、春を迎え、年度末を迎え…時間は決して待ってくれない。自分には何があって何がなくて、何があったら良くて、これは無くても良くて…いつまでそうやっているつもりなのだろう。いつまでこうやっていれるだろう。もちろん24時間ではないが、秋は憂いを加速させる季節でもあると感じる。だがしかし自分はそんな秋が一番好きだ。悩む時間が増えるといえば聞こえは悪いが、結局のところ考えてしまうものは仕方ないというのが自分に与えた赦しの一つでもある。すると「それも自分なんだ」とごく自然に思えるようになった。つい黄昏たくなる秋。夏や冬のような華やかさにはやや欠けるものの、緩急で言えば「緩」に感じるこの季節。水を得た魚とまではいかないが、無性にしっくりくるから不思議な感じがする。

 

あと3ヶ月ほどでクリスマスを迎える。これまでは自分には関係ない行事として割り切っていたが、そろそろ情が理屈を越えようとしている。羨ましい。異性とデートがしたい。自分の社会的立場や性格を考えれば、今誰かと付き合ったりというのは現実味がないと理解している反面、そういった刺激のない年月に対して本能が「いいの?もう若いノリでデートできないよ?30歳超えたらいよいよ難しくなるよ?」と警鐘を鳴らしている。まあ、ブログに書いたところで何かが変わるわけではないが…下心は抜きにして、日頃から誰かと遊んだりという機会も少ないので、行事やイベントに乗じなくてもいいやという部分が普段に比べ少し弱まっているのだと思う。楽しみが欲しい。それは誰しもが思っていることだと思う。世の中には同じように思っている可愛い女の子も少しくらいいるはずなのだが…まあ、今年はずっと家でギターかピアノを弾いているだろう。誰か俺様を攫ってくれプリンセス。そういうとこだぞ。

 

 

 

幻にして

 

CORE PRIDE、点描の唄、夜永唄(Unplugged 2022)

どれも大好きな曲なのでブログで色々語りたいなあと思ったけど結局うまく言葉にならなかった。でも、それでいいんだと思い直した。

熱さ、甘酸っぱさ、切なさ。

心の奥底に眠る気持ちを掘り起こすようにこれからも声に出していきたい。やっと最近少しずつだけど歌えるようになってきて本当に楽しいところです。多分数日後にはまた病んでると思うけど…

人とカラオケに行く醍醐味を他人の歌を聞くこととデュエットに見出している。

単に歌うだけなら1人でもできる。でも1人では掛け合いだったりハモリはできない。挙げた曲で言えば点描の唄がそうだ。やろうと思えば1人で歌うことはできるだろうし、ご本人もライブでそれを実現している。ただ個人的にあの曲は2人で歌って欲しいなと思ってしまう。寂しい思いを埋め合うように、愛しい気持ちを確かめ合うように、まだ見ぬ未来に同じ将来を互いに思い描いたり。稚拙な表現で恥ずかしいところだがそういった関係性の甘酸っぱさがたまらないからだ。

もちろん上記以外にも「2人で歌いたいけど中々相手が見つからない曲」はたくさんある。他人とカラオケに行く機会は今となってはかなり貴重なので、誰かと行く時は積極的に依頼したいところ。あと行ったら行ったですぐ歌える曲が尽きて昔の曲ばっかり歌っちゃうのも何とかしたい。別に悪いことではないだろうけど…

特にオチはありません

気圧の変化かめっちゃぐったりしてます まとまった休みが欲しい

パン屋さんで朝食が食べたい

 

とうとう夏が終わってしまいましたね

夏は体調を崩すので不得手ですが…

何かの節目のように感じてしまって

終わる頃になると

何も変われなかったと振り返るのです

 

蒸し暑い日々の中にも少し秋を感じる日が出てきた。夏は四季の中でも最も終わる終わる詐欺を仕掛けてくるやつである。エンターテイナー、構ってちゃん、メンヘラ、そんなような言葉が思い浮かんだりもするがそんなことはどうでもいい。終わるなら終わる、続くなら続くと言って欲しい。まあどの道あまり外に出ることはないので勝手にしろとも言いたくなるが、それでも様子が気になってはしまうあたり、自分も大概に、対話をしてああでもないこうでもないと言い合えるような相手を探しているのかもしれない。何を言っているのかは自分でもよく分からない。

 

確かに、夏の終わりはまるで日没のような雰囲気だったりと節目を感じる。四季を一日に例えるならば春は朝、夏は昼、秋は夕、冬は夜と言ってもそれなりにしっくり来るような気もする。例えてみてよかった。その例えで言うとやはり夏から秋は日没や日暮れという言葉が適している。大人になってからは夕方夜からこそ外食や飲み会といった楽しみが増えるが、少年時代を思うと日暮れは1日の終わりという空気感が流れていたような気がする。今日は学校でこんなことがあった、誰かと楽しく遊んだ、喧嘩をした、テストでいい点が取れた、取れなかった、体育の授業でプールが終わってしまう、帰り道には蝉の死骸を多く見かける、灼熱だったガードレールも少し温くなった、そういうことを振り返りながら家でゆっくりする。そういった時代もあったなと思う。

 

この人の漫画は本作しか読んだことがないけど、使われる言葉からは不思議と人間の奥ゆかしさを感じることが多い。何が素晴らしくてどのくらい心が動いて、とかはうまく言えないが、無性に惹きつけられる魅力がある。

妖狐×SS、漫画UPで少しずつ読み返してます。

 

優雅な朝

皆は予定のある日の朝はどのくらい余裕を持って起きるだろうか?

ここで言う余裕というのは「座ってコーヒーでも飲んだりテレビでも見ていられるような時間」とする。数分から数十分の余裕を持つ人もいれば、余裕どころか毎日が出発RTA(最短プレイ)を余儀なくされている人もいるだろう。

自分は朝必ずシャワーを浴びたいので、比較的早めに起きている方だとは思う。ただシャワーを浴びていて時間がギリギリになってしまうことはよくあるので、余裕という意味では無いに等しい。しかし遅刻をしそうになる度に形だけは「あと10分早く起きていればよかった」と後悔するし(何故か昼ごろからの予定でもそうなりがち)、心の余裕を持ちたい自分がいるのも確かではある。ただそれでも早起きをしないのは、朝にくつろぐ時間があるのなら、例え遅刻のリスクが高まったとしてもその分を多く寝たいと思うからだろう。仮に目覚ましが鳴る前に起きることがあったとしてもSNSや漫画アプリを見る時間が増えるだけ。朝に起きるのが遅刻をしない為の義務である以上、余裕を持って起きようという考えがそもそも不自然なのかもしれない。

高校生の時に一度だけ、メロンパンとカフェオレを買って朝8時に登校したことがある。何故かというとそういうルーティンがかっこいいと思っていたから。結局お金もかかるしクラスメイトも全然登校してこないし(クラスメイトと積極的に会話を楽しめるタイプでもなかったし)で続かなかったのだが、10年前のことでも思い出せるくらいには記憶に残る出来事だったし、思い出となる出来事に欠ける毎日を過ごす今では多少の無駄があったとしても何かをやってみる精神は大切にしたい。

 

 

 

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Freeの映画の感想を書こうと思ったが、きちんと書くにはかなりの時間が必要ということで潔く諦めることにする。ただ、本当に大切なことは心から消えることはないという考えもある。

実際、ここのシーンがよかったとか映像が音楽がよかったとか、挙げればあるものの、何だかそれは雲を掴もうとするかのように手応えを感じないのだ。語彙力がないといえばそれまでだが、一つを褒めようとするならばその経緯や伏線などにも触れることになり、結果的に約10年間という時間の高い密度と向き合うことになってしまう。映画自体が良かったのは言うまでもないが、積み重ねてきた時間や関係性が集約されており、手をつけるには一冊の本を書くくらいの覚悟が必要だと感じる。

一つ話を挙げるとすれば渚だ。

嘘をついても仕方ないので単刀直入に言えば明らかに代永さんは本調子ではなかった。声を聞くたびに我に返らざるを得なかった。じゃあキャストを変えて欲しかったのかと聞かれるとそうも思わない。例え声が出ずとも、渚がここぞというセリフを発する時は声の不調すらも踏み台にするような強い想いを感じた。渚が仲間を想う心、代永さんが渚を大切に想う心、そのどちらも自分には確かに響いた。

色々とトラブルを抱えてきた作品だがそれは中のキャラクター達も同じだ。それを乗り越え、一つの集大成を見ることができたのは本当に感慨深い。ありがとうございます。

 

 

モチベ

モチベは大事だ。モチベがないと何も頑張れない。

最近の自分はというと、そういうモチベーションが底を尽きようとしている。

好きでやっていることについては別だが、生きるためには好きでない部分に向き合わなくてはならない。好きなことでさえ、好きだからこそ、もっと高みを目指すにはという壁にぶつかることもある。何が言いたいかというと、何をするにも自分の精神衛生は常にベストな状態で過ごしたいし、もっと積極的にコントロールしていくべきだと思っている。

モチベがないことを最も顕著に感じるのが自分磨きだ。

自分磨きと聞いて思い浮かぶものは人それぞれだと思うが、ここではダイエットだったりお洒落だったり、総じて美容に気を遣うという点に絞って話をしたい。

取り繕っても仕方ないので単刀直入に言うが、自分が自分磨きをしようと思うのは、少しでも自分をよく見せたいと思う存在がいるからである。仕事相手だったり異性だったりがそれに該当する。今はリモートで働いているし誰かと改まって遊びに行くこともない。「だからやらなくていいや」ではなく「じゃあやる意味がないな」と思ってしまうのだ。無理に頑張る必要性を感じていないからこそ、サボるというよりは根本的にやらなくなる。

こういうと遊び人のような印象を持たれてしまうかもしれないので補足しておくと、自分磨きとは遊び時間を充実させるためのスパイスでもあるとも考えている。別に相手が異性に限らず、お洒落な街やお店に行く予定があれば「どんな服を着て行こうかな、こういう服で歩きたいな」という欲求も生まれる。海に行くと誘われれば必死に体を鍛え始めるだろうし、少しでも素敵な自分として外を出歩きたいと思うのは自然な感情ではないだろうか。自意識過剰という悪口は甘んじて受け入れるつもりだが、結果的にそれをより良い自分を作っていくきっかけになるのならそれは前向きな思考だと思いたい。

本当に美意識の高い人は自分と同じ状況でも毎日少なくないケアやトレーニングを続けているのだろうか。自分は自意識はあれど美意識はそんなにないので羨ましい。

 

現在楽しみにしているのは劇場版Freeの公開と友達と焼肉を食べにいくことだ。それが終わればもう楽しみとなるものはない。となると、身近なところで好きなコンテンツを増やしていくことが正解に思える。しかしそういった出会いは得ようと思って得られるものではない。体調も少し油断するとすぐ悪くなってしまうので、もっと自発的に外の空気を吸いに散歩にいったり、できる限りで刺激を求めて生きていきたい。以前にも書いたがもう若くはない。遊べるうちにもっと色々な楽しさを経験しておきたい。